スペイン、ポルトガルが主導した世界の大航海時代は、レコンキスタ(再征服)がきっかけだった。

 騎士団を結成してイベリア半島からイスラム勢力を追い出すことに成功した両国は、世界をキリスト教化しようという情熱と、レコンキスタのために欠乏した財政を立て直す必要に迫られ、七つの海に乗り出していった。

 ポルトガルはバスコ・ダ・ガマのインド航路の開拓を期にアジアへ進出し、やがて極東の島国である日本に到着した。折しも日本は石見銀山の開発によるシルバーラッシュに沸いていて、この銀を手に入れることが彼らの目標になった。

 最初の手段は鉄砲を売り込むことだった。日本は戦国時代で鉄砲の需要は高い。しかも火薬の生産に欠かせない硫黄は潤沢にある。そこで彼らは種子島で鉄砲を現地生産するプランを立て、売り込み要員を明の海商王直(おうちょく)の船に乗せて派遣した。

 ライセンスなどくれてやっても構わない。日本で鉄砲が使われるようになれば、材料の軟鋼や真鍮(しんちゅう)、火薬の原料の硝石や弾にする鉛が売れるのだから、日本の銀を吸い上げることができる。1543年の鉄砲伝来はそうした戦略のもとに行われた。

 次にやって来たのはイエズス会のフランシスコ・ザビエルたちである。彼らは布教と同時にポルトガルのために外交官と商社マンの役割をはたし、戦国日本に徐々に喰い込んでいった。

 織田信長も鉄砲の威力と西洋文明のレベルの高さをいち早く理解し、イエズス会の活動を保護してポルトガルとの接近をはかった。そうして天下統一に邁進(まいしん)して行ったが、1580年になって思いもかけないことが起こった。ポルトガル王室の内紛に乗じ、スペイン国王フェリペ2世がポルトガルを併合したのである。そうしてアジア・アフリカにあるポルトガルの植民地まで獲得して、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれる強大国になった。

 信長もスペインと新たな外交関係を確立しようと、来日したアレッサンドロ・ヴァリニャーノと1581年の2月から7月まで交渉をくり返した。その時求められたのは、次の2点だったと思われる。

 一、スペインが計画している明国征服のために、日本から軍勢を出すこと。

 一、イギリス、オランダなどの新教の国とは交易をしないこと。

 信長はこの要求を拒否し、イエズス会とも手を切ることにした。それを明確な形で家臣や領民に示すために、安土城内の摠見寺(そうけんじ)に自分を神として祀り、参拝するように求めた。

 これは信長の思い上がりと評されることが多いが、真のねらいは参拝するかどうかでキリシタンではないことを証明させることにあった。それほどキリスト教は深く根を張っていて、イエズス会、スペインと断交することは信長にとって命運をかけた決断だった。

信長は家康との絆を求めた

戦国時代を代表する美女と言われるお市の方は、浅井長政に嫁ぐが、浅井家が信長に滅ぼされた後、柴田勝家に嫁いだ。豊臣秀吉との戦に敗れた勝家とともに37歳の若さで自害するが、娘茶々は秀吉の側室、江(ごう)は徳川秀忠の正室となり、江の子ども和子は皇室に嫁いだ(イラスト=正子公也)
戦国時代を代表する美女と言われるお市の方は、浅井長政に嫁ぐが、浅井家が信長に滅ぼされた後、柴田勝家に嫁いだ。豊臣秀吉との戦に敗れた勝家とともに37歳の若さで自害するが、娘茶々は秀吉の側室、江(ごう)は徳川秀忠の正室となり、江の子ども和子は皇室に嫁いだ(イラスト=正子公也)

 そこで信長が頼りにしたのが、律義者の徳川家康である。信長が妹のお市の方と家康を娶(めあわ)せたのは、関係を強化して今後の事態に対応しようと考えたからだった。私は拙作『家康』(幻冬舎文庫)の中で、何度か家康とお市の方のベッドシーンを書いた。すると多くの読者から「あれは史実か」という問い合わせや、「馬鹿なことを書くな」というお叱りをいただいた。これまで誰もそんな指摘をしていないので致し方ないが、これはまぎれもない事実なのである。

 私がそうではないかと思ったのは20数年前、日本経済新聞で『信長燃ゆ』(新潮文庫)を連載させていただいている時だった。本能寺の変の直前の天正10年(1582)5月15日、家康は関東平定のお祝いと駿河一国を拝領したお礼に安土城を訪ねた。

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