
【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(42)】1994年の4月から5月にかけて、フジテレビ系のドキュメンタリー番組「感動エクスプレス」でイスラエルのエルサレムまでの旅に出た。旧約聖書の出エジプト記を映画化した「十戒」を見たことでキリスト教に興味を抱き、モーゼが生きたシナイ半島を訪れることが「夢だ」と伝えると、スタッフが受け入れてくれた。

当時は腰のケガから復帰したものの下の世代から突き上げられて、どこか自分の居場所がないんじゃないかという不安や迷いがあった。しかしイスラエルの砂漠の中にいると、自分の悩みがいかにちっぽけなものかが分かった。それまでのモヤモヤがなくなって、自分のプロレスを貫くしかないという覚悟が明確になったことが、95年に立ち上げた「無我」につながっていく。

無我は団体を活性化させるための自主興行で、頓挫した部屋別制度の手本をやるつもりだった。当時、新日本のリング上が自分の理想とはかけ離れていたことも大きかった。“1800年代の伝統あるプロレス”をよみがえらせるコンセプトでカール・ゴッチさんに教わったプロレスを「後世に残さないといけない」という使命感があった。新日本からは、オレが会社に弓を引いて身勝手な大会をやるように思われたかもしれないが、坂口征二社長とも話し合って考えを認めてもらった。
95年1月4日東京ドーム大会を最後に新日本の試合を欠場。この年の新日本は4月に北朝鮮大会、10月にUWFインターナショナルとの対抗戦(東京ドーム)があったが、無我設立に専念していた。そして迎えた10月29日の大阪・ATCホールでの旗揚げ戦は3試合組むのが精一杯だったにもかかわらず超満員のお客さんが集まってくれた。道場をつくったり、外国人選手を呼んで指導したり、すべてポケットマネーでやっていただけに、あの光景を見た時は本当に感無量だった。
無我には旗揚げから西村修が参戦し、倉島信行、正田和彦(MAZADA)、竹村豪氏ら新人選手も加入するなど自主興行を定期的に開催していったが、現実は厳しく思い通りにいかない部分もあった。99年6月、俺が新日本プロレスの社長に就任すると、会社全体を考えなければならなくなり、継続することが難しくなっていた。結局、長州力の提案によって新日本のシリーズの中で無我提供マッチを行うことになり、独自の大会は中止することになった。
無我のクラシックなスタイルはファンからの理解を得られていたと思う。だけど、もしかしたらやりたいことを急ぎ過ぎて焦っていたのかもしれないという反省もある。それでも無我での活動に後悔はないし、今の自分につながる大切な思い出になっている。