
【炎の飛龍 藤波辰爾の軌跡 一心己道(43)】1998年、ライバルの長州力と師匠のアントニオ猪木さんが揃って現役を引退した。長州は1月4日東京ドーム大会で引退試合を行った。スクラムを組んでやってきた間柄だったからショックはあった。ただ体力的にもそうだし、現場監督という精神的な負担が大きかったんだろう。彼はスパッと決断を下す部分もあって、お客さんに分かりやすい行動を取るから慎重派の俺からしたらうらやましい部分もある。

しかし、長州は俺が社長時代の2000年7月30日横浜アリーナ大会で復帰。大仁田厚とのノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチに臨んでしまった。もちろん、長州が好んでの試合ではなかっただろう。彼も現場監督をやっていて、新日本が頭打ちになっているところに悩んだ末「自分の身を削ってでも…」という気持ちだったと思う。俺も現場が決めたことに介入しないと決めていた。

ただ、長州には悪いけど、この試合は見ていられなかった。雑誌を見ることもしなかった。長州は泥水をすする覚悟でリングに出たんだろうけど、やはりそこには足を踏み入れてほしくなかったし、受け入れることができなかった。
猪木さんが38年間のレスラー生活にピリオドを打ったのは4月4日の東京ドーム大会だった。幼い頃から憧れ、日本プロレス時代から背中を追いかけてきた師匠の引退には何とも言えない喪失感があった。
とはいえ、いつまでもセンチメンタルな気持ちになっている余裕はない。この大会で俺は佐々木健介の持つIWGPヘビー級王座に挑戦した。現場監督の長州が自分の気持ちを察してくれたんだろう。長州、猪木さんが次々とリングシューズを脱いでいく中で「俺もどこかでケジメをつけないといけないのか…」という気持ちが芽生えないよう、あえて大一番を用意したんだと思う。
プロレスは他のスポーツと違って、ファンと一緒になって物語をつくり出していくドラマ性がある。長州はお客さんの心を揺さぶる感性がすごかった。猪木さんの引退の日に44歳の俺にタイトルマッチを組むんだからね。その思いに応えたいと思って健介に挑み、ジャーマンスープレックスで勝利を収めた。腰に爆弾を抱えているだけに、イチかバチかの賭けだったけど、これで立てなくなってもいいという思いだった。バカだね、俺も。
でも、この大会でこの試合が組まれた意味を考えれば、それが正解だったと思う。猪木さんという太陽が沈み悲しむファンに、俺が感動を与えなければいけないという使命感があった。だけど…引退試合でドン・フライに勝利した猪木さんのコンディションの良さには驚かされた。やっぱり猪木さんは最後の最後までスーパースターだったね。